「忘れないために」


小原木中学校3年   梶川 裕登

 皆さんは、以前の気仙沼の街並みを思い出せますか。僕は、はっきりと思い出すことができません。今の景色を以前からあった景色として錯覚してしまっているのです。
 それに気付いたのは、小原木中学校での活動からでした。
 小原木中学校では、海抜表示プロジェクトを行っています。その場所が、海抜何Mなのかを調べ、電柱など見えるところに、このような表示板を取り付けていきます。海抜を意識し、どの高さまで逃げればよいのか、参考にしてもらおうと考えたプロジェクトです。
 調べてみると、小原木中学校は海抜七〇M。気仙沼高校は四〇.五M。市立病院は一三.八M。エースポートは〇.八Mでした。僕が住む只越地区の津波の最大値は二七.六M。海抜五.二Mしかなかった僕の家は、残念ながら、もう影も形もありません。
 僕たちはまず、この表示板を舘地区に取り付けました。この地区はほとんどが海抜二〇M以上で、被害の少なかった場所です。次に大沢地区の取り付け。ここは、海と少し離れていても多くが海抜二M程度で、大きな被害のあった地区です。
 取り付け作業の中で、僕は、変わり果てたこの地区の姿を見ながら、言いようのない不思議な感覚に襲われていきました。それは、草が生い茂る、何もなくなったこの景色を見ても、僕は、違和感を全く感じなくなっているのです。今のこの景色にすっかりなれてしまった自分がそこにいました。あたかもこの景色は、僕が生まれる前からずっとこうだったんだと。いや、それは違う。こんな姿ではない。ここには僕の友達の家が立ち並び、漁港から見える海はもう少し遠く低くて、コンビニはここにはなかった。かつて過ごしてきた風景が、僕の頭の中から薄れていってしまう。取り付けをしながら、何が以前で、何が今なのか。何が変わって、何が変わっていないのか。
 その後、何かに誘われるように、かつての自分の家があった場所に行ってみました。いま残っているのはコンクリートの土台だけ。ここで生活の営みがあったなんてこれっぽっちも感じられません。でも、この風景にも何の違和感を感じない自分がそこに立っていました。ここには、皆で笑った家があったはず。地域があったはず。そして、笑顔のおじいさんがいたはず。でも、もう……。
 震災から二年あまりしか経っていないのに、十年以上も暮らした環境を感覚を失いつつある自分がいたのです。僕を今まで育ててくれたこの温かな場所を、僕は心の片隅から消し去ってしまうのかと、自分自身がとても怖くなりました。
 人は忘れてしまうもの。慣れてしまうもの。悲しみの中にいつまでもいてはいけない。切り替えて前へ進まなくてはいけない。古いものや壊れたものを直し、新しいものに変える。でも、それだけでは、真の復興ではないと僕は思います。辛いけれど、震災があったことを、そこに町があったことを、僕たちは忘れず、しっかり伝えていかなくてはならないと思うのです。
 「忘れないために」その一つの手立てが、海抜表示プロジェクト。身を守ることの大切さを伝えながら、地域を回り、昔の景色、育った環境、地域の温かさを、もう一度確認し、取り戻し、そして伝える。
 僕はこれからも、ここにどんな人たちが住んでいたのか、どんな町があったのか、そして震災でどんな被害を受けたのかをしっかりと後世に伝えていきたいと思っています。それが、海と一緒に生活していく僕たちの役目だと思っているから……。

少年の主張全国大会・内閣総理大臣賞